釈尊最後の旅

王舎城(ラジギール)を出て、パトナ、ヴァイシャーリー・ケサリヤ・パーヴァー
そして、入滅の地クシナガラ。
クシナガラはもちろん四大仏跡のひとつ。
途中のヴァイシャーリーも八大仏跡に選ばれています。
2012年12月訪問

写真はクシナガラ大涅槃堂の涅槃仏


80歳になられたお釈迦様はご自分の死期を悟られ、最後の旅に出られます。王舎城(ラジギール)の霊鷲山を出て、北へ。故郷カピラヴァストゥを目指していたのでしょうか。お釈迦様はネパールとの国境に近いクシナガラで入滅されます。クシナガラまでの道を辿ります。


パトナ

ラジギールの北、ガンジス河南岸のパトナはビハール州の州都です。
お釈迦様の時代に建設が始まり、後に1000年以上に渡ってインドの首都だった場所です。
公園になっているクムラーハールに4世紀から6世紀にかけての僧院と病院跡が残っていました。

   

パトナはお釈迦様の時代にマガダ国のアジャセ王(ビンビサーラ王の息子)がヴァッジ国からの防衛のため城塞を作ったのが始まりです。当時はパータリという村でした。ヴァッジ国はマガダ国の北に位置し、共和制の政治を行う商業国でした。アジャセ王は当初はヴァッジ国を攻めようとしますが、お釈迦様から彼らが共和制の政治を行い、古老を敬っている間は繁栄することはあっても衰退しないと言われたため、侵攻を諦め、代わりに防御のための城塞都市を作ったのです。

お釈迦様は最後の旅で、霊鷲山を出てから、ナーランダを通り、ここパトナではこの地の未来の繁栄を予言し、在家信者達に正しい商売のあり方を一晩説いたと言われています。

釈尊の入滅後、アジャセ王の次の王が、マガダ国の首都をこの地に移し、その後、1000年に渡り、この地はインドの首都であり続けました。有名なアショカ王の都も、この地だったわけです。

1000年にも渡りインドの都だったにも関わらず、この地にはほとんど何も残っていません。

ガンジス河が近いため、度重なる洪水で流されたのか・・・。
遺跡公園に1本残る柱が、かっての王宮の跡。

かっての王宮は東西8列、南北10列の柱があり、木造の3階建てで、正面玄関には川から船で入ったと言われています。

アショカ王が行った第3結集は、この王宮で行われたということですが、王宮の跡は広々とした芝があるばかりで、かっての姿を想像するのも困難です。


州立博物館

パトナでは州立博物館に立ち寄りました。
仏教関連が充実した博物館です。
払子を持つヤクシー
 
 ガンダーラ仏




ヴァイシャーリー(広巌城)

ガンジス河を越えて北に進むと、ヴァイシャーリーです。ヴァイシャーリー(広巌城)はヴァッジ国の首都で、城壁都市でした。ヴァッジ国は世界最古の共和国と言われ、都である広巌城は自由な商業都市として栄えていました。お釈迦様は何度もこの地を訪れており、インド5大精舎の2つがあった場所でもあります。

お釈迦様は最後の旅で、ここヴァイシャーリーで雨季の雨安居を過ごされました。その際、お釈迦様は激痛に襲われたとされています。ご自身の死期が近いことを分かっていらっしゃったお釈迦様は阿難(アーナンダ)に自分の死後、教団は法以外に頼ってはいけないと語っています。


レリック・ストゥーパ

ストゥーパ型のトタン屋根の下にストゥーパの跡が残っています。



ここはヴァッジ国の八分起塔があった場所です。八分起塔というのはお釈迦様が亡くなってからご遺骨を8つの国・部族で分け、それぞれの国・部族が建てたストゥーパのことを言います。当初は泥でできた土饅頭のようなものだったとされますが、その後、アショカ王の時代に拡張されました。
また、アショカ王は各地の八分起塔を開けて、仏舎利を取り出し、それを分けてインド中にストゥーパを建てました。この地の仏舎利も分けられてしまったわけですが、パトナの州立博物館に発掘された仏舎利が展示されています(特別料金を取られますが、馬鹿高いわけではありません)。

   



仏塔とアショカ王柱

5大精舎のひとつ大林精舎の跡に建つストゥーパとアショカ王の石柱
手前の池は猿たちがお釈迦様のために掘って寄進したと言われる池です。



大林精舎という名前のとおり、かって、この地は大きな林だったようです。お釈迦様は最後の旅で、広巌城(ヴァイシャーリー)では遊女アンバパーリーのマンゴー園での食事のもてなしと園林の寄進を受けており、このアンバパーリーが寄進した園もインド5大精舎の一つとなっています。
すなわち、インドの5大精舎というのは、王舎城(マガダ国の都、現ラジギール)にある「竹林精舎」と「霊鷲精舎」、広巌城(ヴァッジ国の都、現ヴァイシャーリー)にある「大林精舎」と「アンバパーリー精舎」、そして、舎衛城(コーサラ国の都、現シュラヴァスティ)の「祇園精舎」です。日本では余り知られていないと思うのですが、祇園精舎と並ぶ精舎が2つもあったということは重要な布教伝道の拠点だったんですね。

7世紀に訪れた玄奘は、ここに「8つのストゥーパ」があったと書き記しています。
そのうちの一つが大ストゥーパの横にある「阿難尊者半身塔」。阿難(アーナンダ)を祀る仏塔です。
長年に渡りお釈迦様の身の回りの世話をし、最後の旅にも同行した阿難(アーナンダ)は、後に3代目の教団指導者となります。
この塔が「半身塔」とされるのは、その壮絶な最期から。
死期を悟った阿難は、自分の骨の取り合いで争いとなることを恐れ、ガンジス河に船を浮かべ焼身自殺をします。その遺骨は河の両岸に平等に降り注いだと言われ、だから「半身塔」なわけです。

また、この大林精舎は女性が最初の出家をした場所です。
出家者はお釈迦様の養母マハー・パジャーパティー。彼女は何度も出家を望むも許されず、阿難の取り成しでようやく出家が許されました。

当時、女性の出家というのは今では想像もできないほど革新的なことだったようで、後に阿難は大迦葉から女性を出家させたことを「5つの大罪」の一つとして批判されているほどです。


アショカ王柱はお釈迦様が3か月後に入滅すると宣言した場所に立てられたと言われています。
このアショカ王の石柱は頂上に乗るのはライオンですが1匹だけです。
この形式はアショカ王の石柱の中でも古い様式なのだそうです。

   


クタガルシャラ寺院とマンジ寺院

大ストゥーパのすぐ近くにクタガルシャラ寺院とマンジ寺院の跡が残っています。
クタガルシャラ寺院はお釈迦様の雨安居があったと言われる場所に建てられた寺院(左下)。
奥に仏塔の跡も残っています。3世紀以降のグプタ朝のものです。
マンジ寺院は尼僧院だったと言われる場所(右下)。グプタ朝のもので、なんとトイレの跡があるとか・・。

   


最後の旅でヴァイシャーリーを出ると
お釈迦様は「象がゆっくりと身をひるがえすように町を眺め」
「これが最後の眺めになるだろう」と阿難(アーナンダ)に告げています。
年老いたお釈迦様と寄り添う阿難の姿が見えるようです。



ケサリヤのストゥーパ

ヴァイシャーリーから更に北上したケサリヤ
ここはヴァッジ国とマツラ国の境界だった場所です。
お釈迦様はここで托鉢で使っていた鉢をヴァッジ国の人に渡して別れたと言われています。
お釈迦様を慕って多くのヴァッジ国の人達が、ここまで付いてきたんですね。
記念のストゥーパが建っているのですが、あいにくに霧で良く見えません(左下)。
悔しいので土産物屋で貼ってあったポスターを拝借。本来は、こう見えるはずです(右下)。

   

ケサリヤのストゥーパは45m。「ボロブドゥールより高い、現存する世界最大のストゥーパ」と力説されました。帰国後、確認したらボロブドゥールは42mということなので、確かに高さでは勝っていますね。そもそもボロブドゥールはストゥーパなのか争いがありますが・・・。

ケサリヤのストゥーパはボロブドゥールのような美しいレリーフで飾られているわけではないのですが、インドのストゥーパの中ではちょっと変わった構造のようです。霧の中で確認したところ、6壇になっていて、壁龕にはところどころ仏像が残っています(左下)。最上部は丸く造られているものの(下中央)、下の方の壇は段々になっている不思議な造り・・・。

     



パーヴァー

クシナガラまで約18キロのところに位置するパーヴァー。
ここでお釈迦様は最後の食事、鍛冶屋チュンダの供養を受けます。
写真はお釈迦様が休んだと言われるマンゴー園の跡?


お釈迦様は鍛冶屋チュンダのマンゴー園で休息し、チュンダから食事に招待され、チュンダの家で最後の食事を摂ったと伝えられています。現在の村人の話は正直要領を得ないものだったのですが、おそらく上の写真の場所がマンゴー園の跡だと思われます。のどかな村の田園の中ですが、仏教徒のためにお寺を作るということで現在、村人が工事中。その後、チュンダの家の跡に建つというストゥーパを案内してくれました。

チュンダの家の跡と言われるストゥーパは町中にありました。ストゥーパといっても、ほとんど基礎が残っているだけですが・・・。

チュンダの出した食事でお釈迦様の体調が悪化し、ついにクシナガルで入滅されるのは有名な話ですが、出された食事は豚肉ともキノコとも言われていて、はっきりとは分からないのだそうです。

お釈迦様はご自身は料理を口にされましたが、他の人には食べさせずに捨てさせました。
悪いものだということが分かっておられたようです。


食事の後、お釈迦様を激痛が襲い、下血もされたと言います。それでも、お釈迦様はクシナガルを目指します。歩くのも大変な体調だったに違いありません。しかし、お釈迦様はチュンダを気遣い、阿難・アーナンダに「チュンダの供養はスジャータの供養と同じように尊い。」とチュンダに伝えるように言づけます。スジャータの乳粥で成道し、チュンダの料理で涅槃に入ることから、どちらも等しく尊いと述べられたそうです。



クシナガラ

お釈迦様は途中、阿難・アーナンダに水を求めたり、川で沐浴をしながら、ついに入滅の地、クシナガラに入ります。

写真の川はヒラニヤヴァティー川。お釈迦様が最後の沐浴をされた川です。

この川で沐浴をされた後、お釈迦様はクシナガラで最後(正確には最後から2番目)の説法を行います。

川岸に立っている小さな塔はヒンズー教徒が家ごとに置く塔。家族ごとに塔を持っていて、そこにお供え物をするのだそうです。



最後(から2番目)の説法地

クシナガラでお釈迦様が行った最後(から2番目)の説法地には僧院跡が残り、お堂も建てられていました。

   

お堂に入って見ると、美しい仏像が置いてありますが、本来の床がかなり低い場所になっていて、ちょっと足元注意です。
仏像に合わせて今のお堂が建てられてしまったため、昔、礼拝していた場所が低くなってしまっているわけですね。仏塔は11世紀、パーラ朝の時代のもの。低い床が11世紀の地面の高さです。

   



大涅槃堂

お釈迦様が涅槃に入られた地には大涅槃堂が建てられています。
沙羅双樹の間に横たわられたという言い伝えに基づき、
大涅槃堂の前には2本の沙羅の木が植えられています。




大涅槃堂と、その裏に建つニルヴァーナ・ストゥーパ
白い建物なので霧の中に溶けてしまいそうです・・・・。



説法の後、お釈迦様は阿難・アーナンダに疲れを訴え、2本の沙羅の木(沙羅双樹)の間に床を設けさせ、頭を北に、右脇を下に、足を重ねて横たわられました。

お釈迦様がクシナガラに来ておられることを聞いたスパッダという行者が面会を求め、阿難・アーナンダは断りますが、お釈迦様は会うと述べられ、彼を相手に最後の説法を行います。

スパッダを最後の弟子とした後、お釈迦様は周囲の弟子たちに、教義や戒律に疑問があれば聞くようにと伝えます。お釈迦様は3回、尋ねられたと言います。3回目に、アーナンダが教義に疑いを持っている者はいないこと、今悟りを味わっていないものも、教えにより必ず悟りを開くであろうことを伝えます。

お釈迦様の最後の言葉は「君たちよ。怠ることなく精進したまえ。この世の全ては無常なのだから。もう話さないでください。私は逝こうと思います。」と言うものでした。

お釈迦様の入滅にあたり、沙羅双樹は季節外れの満開の花を咲かせたと言います。亡くなられた日を、日本では2月15日、南アジアでは4月の満月の日と伝えています。

入滅の地に建つ大涅槃堂はミャンマーの仏教徒が建てたもの。
内部には19世紀に発見された涅槃仏が置かれています。
涅槃仏は、5世紀に作られたもので、8mの大きさ。信者の捧げる金箔で、分かりにくくなっていますが、元々は赤い砂岩製。
台座には嘆き悲しむアーナンダや最後に弟子となったスパッダ等が彫られています。

衣装は毎日着替えさせているということでした。

涅槃仏の前は世界各地からの仏教徒で大賑わい。前に座るには、しばらく順番待ちが必要です。
花を捧げる仏教徒や金箔を貼る仏教徒など、それぞれのお国ぶりがあります。

涅槃仏の周囲のガラスの仕切りは、つい最近できたもののようです。
信者が感極まって触ったりしちゃうからなんでしょうけれど(かなり感動して興奮している人達も多い)、ちょっと興ざめです。

でも、係の人が付きっきりで清掃していて、常に綺麗な状態が保たれているのは嬉しい限り。


涅槃仏には目を開けていて最後の説法を表すものと
目を閉じて涅槃に入ったことを表すものがあると言いますが
ここの涅槃仏はもちろん目を閉じています。穏やかなお顔です。




ガラスケース越しに撮ってみました(左下)。やっぱり邪魔です。ガラスがなければなあ・・・。
寄進するとお釈迦様の足に頭を付けることができます。よく見ると足の裏には法輪が彫られています。
奮発して100ルピー払ったら、足元に彫られた蓮の花を見せてくれました(右下)。

   


大涅槃堂の周囲は、多くの僧院跡やストゥーパの跡が残っています。入滅の地、四大仏跡の一つなのですから、古代から多くの僧達が集まったのは当然かもしれません。現在も、クシナガラにはミャンマー・チベット・スリランカ・日本・・・と各国の寺院が集まっています。

霧の中、良く見えませんが、右の写真は大涅槃堂のニルヴァーナ・ストゥーパの裏にあるストゥーパで、アヌルッダ尊者のストゥーパと伝えられています。

アヌルッダはお釈迦様のいとこで、出家して間もない時にお釈迦様の説法中に居眠りをしてしまい、それを恥じて以後二度と寝ないと宣言し、ついには失明してしまったという人物です。
しかし、失明後は心眼第一と言われる十大弟子の一人となります。

アヌルッダはお釈迦様の最後の旅に同行していました。

お釈迦様の二大弟子と言われた舎利弗(サーリープッタ)と目連(モッガラーナ)は既に亡くなっており、彼らに次ぐ人物となると大迦葉(マハーカッサパ)となりますが、彼は当時布教の旅に出ていました。
お釈迦様が入滅した時点では、阿難・アーナンダはまだ悟りに達していなかったので、アヌルッダが入滅に立ち会った教団の最高幹部となります。

アヌルッダはアーナンダを慰め、励まし、お釈迦様の葬儀の準備を進めます。



荼毘塚(ラマバール・ストゥーパ)

大涅槃堂から1キロもしない場所に荼毘塚はあります。
ここはお釈迦様を荼毘に付した場所です。



お釈迦様が亡くなったことを知り、マツラ国の人々は布や花、香木を持って集まります。マツラ国の人達がアヌルッダにどのように葬儀を行うべきか問うたところ、「転輪聖王(全世界を治める理想的君主)にふさわしいものを」との答えだったことから、マツラ国王は戴冠式の場を葬儀の場として提供したのだということです。そこが、ここです。

お釈迦様のご遺体は何重もの布で包まれ、香木がまきとして用意されましたが、何故か火を付けようとしても付きません。1週間後、布教の旅に出ていた大迦葉(マハーカッサパ)が駆け付け、お釈迦様の足に額づくと、自然と火が付いたと伝えられています。

お釈迦様の遺骨をめぐっては、独り占めしようとするマツラ国と求める国々の間で戦が起こりかねない事態にまでなったものの、ドロナというバラモンが仲裁し、8つの国で分けることとなります。

そして、仏教教団は2代目を大迦葉に、3代目を阿難とし、途中、お釈迦様の教えを正確に伝えるための結集を何度も行いながら、世界に教えを伝えていくわけです。


お釈迦様の最後の旅を辿って
自分が仏教徒なんだな、ということを実感しました。
意識したことなかったけれど、それでも凄い影響を受けていたんですね。
これからお釈迦様の教えについても学んでみたいと思います。



生誕の地(ルンビニ)       故郷(カピラヴァストゥ)
成道の地(ブッダ・ガヤー)    初転法輪(サールナート)
伝道の地・王舎城(ラジギール)     大学(ナーランダ)
伝道の地・祇園精舎・舎衛城(サヘート・マヘート)と奇跡の地(サンカーシャ)


南アジアの遺跡に戻る




参考文献

「ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経」(岩波文庫)
「仏陀誕生の地 ルンビニは招く」(パサンダ・ビダリ著)
「ブッダの生涯」(新潮社とんぼの本 小林正典・三友量順著)
「釈迦と十大弟子」(新潮社とんぼの本 西村公朝著)
「ブッダの生涯」(創元社「知の再発見」双書 ジャン・ボワスリエ著)
「原始仏教」(NHKブックス 中村元著)
「原始仏典」(ちくま学芸文庫 中村元著)
「『ブッダの肉声』に生き方を問う」(小学館101新書 中野東禅著)


基本的には添乗員さんの説明を元にまとめています。