国立人類学博物館

メキシコシティの国立人類学博物館。
メキシコが誇る世界的考古学博物館です。
アステカ室を中心に紹介します。
2002年12月、2014年3月訪問

写真はアステカ室の太陽の石



アステカ室

アステカ帝国の首都ティノチティトラン
湖に浮かぶ都市。かってのメキシコシティの姿です。


アステカ帝国を築いたアステカ族は12世紀にウィツィロポチトリ(左のはちどり)の予言に導かれて伝説の地アストランを離れ、「サボテンの上で蛇を食べている鷲がいる地」という約束の地を求めて移動を開始します。途中、既に廃墟となっていたトゥーラを経て13世紀にメキシコ盆地に到着。

しかし、当時のメキシコ盆地は群雄割拠の状態で新参者の彼らが住む場所はなく、先住国から攻撃を受けます。行き場を無くしたアステカ族が、テスココ湖の小島に辿り着いたところで、ついに彼らは「サボテンの上で蛇を食べている鷲がいる地」という予言の光景を目撃します。予言に基づきアステカ族は小島に定着し、その地を都として国を建てました。1325年のことでした。

その後、アステカ族は小島の灌漑を進め農地を広げるとともに、その好戦的な性格から徐々に力を蓄え、当初は周辺国の傭兵だったものが1428年には独立を果たし、スペイン人が到来する16世紀にはメキシコ高原を支配する大帝国に成長していました。湖上に浮かぶティノチティトランには幾つもの堤道が走り、市街には宮殿や神殿が建ち並び、大きな市場で賑わっていて、1519年にこの地に到着したスペイン人は、その余りの壮麗さに目を疑ったと伝えられています。

ティノチティトラン中心部


ティノチティトランの中心部には500m四方の聖域があり、そこには様々な神殿、ツォンパトリ、球技場などが建ち並んでいました。中心となるのがウィツィロポチトリとトラロックの2つの神殿が並んで建つ大神殿。他にも円形をしたケツァルコアトル神殿、テスカトリポカ神殿等がありました。

スペイン人によるアステカ帝国の征服後、これらの神殿は破壊され、埋められ、その上にスペイン人の都市が築かれました。今のメキシコシティはテスココ湖を埋め立てて造られています。
国立人類学博物館アステカ室の展示品の多くはメキシコシティの地下から発見されたものです。



入口から撮ったアステカ室



アステカ室に入ると、正面には有名なアステカ・カレンダーとも太陽の石とも言われる巨大な円盤。その周囲には奇怪な神々。そして、入ってすぐのところにはジャガーの石像。

このジャガー、正面から見ると一瞬かわいいかななどと思ってしまうし、横からみると尻尾が立派だなと思ったりしていまうのですが、単なるジャガーではありません。

これは「クアウシカリ」と呼ばれるもので、生贄の心臓を入れるために使われたものなのです。

少し分かりにくいかもしれませんが、ジャガーの背中に丸く穴が開いています。そこに生贄の心臓を入れたわけです。

アステカの人々は太陽が毎日昇るためには生贄の心臓が必要と信じていました。
それだけでなく、アステカの神々は生贄を要求する神々として有名です。

そのため壮麗な神殿群は生贄の血で染まり、異臭をはなっていたとか・・・。


立派な円形の台座です。側面には戦う戦士のレリーフ。


実はこれも捕虜を置いた台座。溝があるのは血を流すため。




アステカカレンダー・太陽の石

アステカ室正面に置かれたアステカカレンダー
太陽の石とも呼ばれます。

近くの人の姿からも分かるように、実に巨大です。直径は3.6m。
メキシコシティ中心部にある大聖堂の修復工事中に発見されました。

中央は擬人化された太陽。口から出ているのは人身供養用のナイフ。

太陽の周りにある4つの絵文字は既に滅んでいる4つの太陽を表しています。

アステカでは過去に4つの太陽の時代があったと考えられており、第1の時代はジャガーによって、第2の時代は大風によって、第3の時代は火の雨によって、第4の時代は洪水によって滅んだと考えられていました。絵文字はジャガー、風、火の雨、水を表しています。

その次の2番目の輪にはナワトル語の20の暦名。3番目の輪には装飾模様、4番目の輪にはトルコ石と翡翠のシンボル、春分・夏至・秋分・冬至のシンボル。

そして、最も外側には2匹のシウコアトル(トルコ石ないし火のヘビ)。2匹のヘビは下で向かい合い、大きく口を開けています。


説明図と並べてみました。
   

アステカによると今は第5の太陽の時代
第5の太陽は大地震で滅ぶことになっているそうです。




アステカの神々

まずは、国立人類学博物館で最も有名な展示品のひとつ
非常に奇怪かつ強烈なインパクトを持つこの像はコアトリクエ。「ヘビの婦人」を意味するアステカの大地母神で、アステカ人をティノチティトランに導いた最高神ウィツィロポチトリの母とされます。 
左下が正面、右下が後姿です。
   

ここまで変わった姿の神像は世界的にも珍しいのではないでしょうか。頭の部分は2匹のヘビが向かい合うような形で表わされ、口からはヘビの牙と先が2つに分かれたヘビの舌が出ています。実はこの2匹のヘビは斬首された頭の代わりに置かれたもので、首から両肩にかけて流れ出す血がヘビの頭の形で表され、腕を形作っています。切り取られた人間の手と心臓と頭蓋骨が女神のペンダント。スカートは曲がりくねった無数のヘビ。実に恐ろしい姿で、おぞましさすら感じます。

首から流れ出すヘビは豊穣祈願を、手・心臓・頭蓋骨でできたペンダントは太陽を養うために人の血と生贄が必要なことを表し、この像は人の誕生と死を象徴してているのだとか。



もっともすべてのコアトリクエがこのような姿で表されるわけではありません。
下の写真左の像もコアトリクエ。共通なのはヘビのスカートくらいでしょうか。
右の像は火と光の神シュウテクトリ


このコアトリクエも顔は頭蓋骨なんですが、むしろ可愛く見えてくるから不思議。



コヨルシャウキ頭像

アステカカレンダー・太陽の石の隣に置かれている頭像はコヨルシャウキ女神。

アステカの月の女神で「黄金の鈴」を意味し、頬や帽子に鈴の模様が彫られています。

この女神は大地母神コアトリクエの娘で、ウィツィロポチトリの姉にあたります。

アステカの伝説では、コアトリクエはある日、掃除をしている時に美しい羽根を見付け、懐に入れたところ妊娠します。
コアトリクエの多くの子供たちは母が不義の子を宿したと怒り、母殺しを企てます。
それを知ったコヨルシャウキは母に警告しようと近づきますが、その時、母を守ろうと完全武装して生まれ出たウィツィロポチトリによって首を斬り倒され、他の子供たちとともに殺されてしまいます。

後に姉の無罪を知ったウィツィロポチトリが姉の首を空に投げると、それは月になり、頬の鈴が輝き続けるようになったんだとか・・・。

この神話を、ウィツィロポチトリを太陽、コヨルシャウキを月、他の多くの子供たちを星として、昼と夜の象徴と考える説もあるそうです。


テンプルマヨールから1978年にばらばらにされたコヨルシャウキが彫られた巨大な円形の石板が発見されていて、付属博物館の目玉ともなっているそうです。まだ見る機会に恵まれていないのですが、一度見てみたいものです。



他には、こんな神々も・・・
   

左上はショチビリ。奇怪な姿に見えますが、実は「花の王子で青春・愛・踊り・詩・劇」などを司る神なのだそうです。体には花の文様をつけ、花と蝶で飾られた玉座に座っています。
右上はシワテテオ。アステカでは将来戦士となる男子を出産する際に命を落とした女性はみなシワテテオという神になるとされました。お産で死ぬことは戦死と同様の名誉ある死だったのです。彼女らは戦場で死んだ戦士の魂を運ぶ役割をしたと言われ、骸骨の頭と鉤爪を持ちます。


アステカの神々は恐ろしい姿のものが多く、好きかと言われれば正直なところ好きにはなれません。

でも、このように変わった姿の神々を考え出す発想力というのは凄いものです。

アステカの人々は生贄にされるのを誇りに思っていたというし、我々とは価値観も全く違っていたのですから、これらの神々の姿も我々とは違うように見えていたのかもしれません。

違うと言えば、左の写真。人をおちょくった姿というか、恥ずかしい姿というか・・・ですが、実はこれは「死の神の司祭の姿」。

死の神の司祭がこんな恰好してていいのか、と思いますが、解説書によると死の神ミクトランテクトリの象徴として独特の衣装をまとっているということで・・・・やはり価値観が違いすぎる。

アステカ族にとって死の世界は俗世の苦役からの解放の地とされたそうですが・・・。

この像、博物館に幾つも飾られていました。ティノチティトランでは多数造られていたそうです。



変わってると言えば、こっちはちょっとカワイイ変わった系
   

このくちばしを付けたサルのような奇妙な像、実は左上はケツァルコアトル神、右上はケツァルコアトル神もしくはケツァルコアトルの神官なんだそうです。

ケツァルコアトルといえば羽毛のあるヘビ。チチェン・イツァーのような姿を考えてしまいますが、この神、ずっと信仰されている間に、各地の色んな神の要素が加わって行ってアステカのころには、このような姿になったのだとか。アステカでは風の神とされることが多く、くちばしの付いた仮面は風を起こすために必要だったのだそうです。金星の神ともされました。



アステカといえば戦士の存在も忘れてはいけません。

メキシコ高原に遅れてやってきたアステカ人は当初、先住の人々に蛮族とののしられ、軽んじられていました。
それが大帝国にまで短期間にのし上がったのは、ひとえに彼らの戦闘能力。好戦的な性格によるものです。

アステカでは全ての男子に兵役が課され、特に勇猛な戦士たちは鷲の戦士、ジャガーの戦士という戦士団の一因に列せられたといいます。

左の写真は鷲の頭飾りを付けた鷲の戦士像。
ガラスで光ってしまったのが残念ですが、人類学博物館で見たかったもののひとつです。

アステカ軍はスペイン軍を何度か打ち破っており、アステカが滅んだのは追撃せずにスペイン人を生贄にするのに忙しかったから、とか、戦闘で負けたのではなくスペイン人の持ち込んだ天然痘に負けたのだとも言われています。

彼らがスペイン人を撃破していたら世界の歴史はどうなっていたのでしょうか。



頭飾りが印象的な人物像も撮ってみました。
神官でしょうか。右下はトラロックのような仮面が付いています。ちょっと日本の兜みたい。
   




国立人類学博物館はアステカ室以外に時代・地域ごとの多くの部屋があります。



テオティワカン室

メソアメリカの超大国テオティワカン

メキシコシティ近郊のテオティワカンは紀元前500年ころには小さな祭祀センターに過ぎませんでしたが、紀元前後から急速に発展し、後150年ころにはメキシコ盆地の人口の80〜90%が集中する大都市に成長します。
その後もテオティワカンは成長を続け、最盛期の450年ころには人口20万人を越える世界有数の都市となります。しかし、650年ころ、謎の滅亡。超大国でありながら謎の遺跡なのです。

テオティワカンについては、遺跡 博物館(国立人類学博物館・壁画博物館)にまとめました。

でも、この時代のテオティワカン以外の出土品で忘れられないものがあるので1つ紹介。

テオティワカン全盛期に第2の都市だったチョルーラの壁画です。
レプリカみたいですが、何なんでしょう、これ。鳥頭の宴会? 忘れられない一品です。





トルテカ室

テオティワカン滅亡後、メキシコ中央高原ではしばらくは群雄割拠の状態となります。民族の移動が生じたのか、まず、マヤの影響が色濃いカカシュトラやショチカルコ等が8世紀から9世紀にかけて栄え、次いで800年ころからトルテカ族が拓いたトゥーラがメキシコ高原の覇者となります。

カカシュトラは見事な壁画で有名です。人類学博物館にレプリカが展示されていました。
マヤの影響が強い壁画でメキシコ高原とマヤの関係が興味深い遺跡です。



カカシュトラについては独立してまとめましたが
遺跡のオリジナルは近くで見れなかった(2003年1月)ので、レプリカを紹介。
   

どう見てもマヤの人物像。
ジャガーと鷲の戦士のようです。太陽と夜の象徴?



カカシュトラと同時期に栄えたショチカルコ遺跡の球技場から発見されたコンゴウインコ
ホンジュラスのコパン遺跡との類似性が指摘されています。
ショチカルコもマヤとトルテカの融合が色濃い遺跡。


ショチカルコは美しいケツァルコアトルのレリーフで有名。
実はまだ行けてないんですよね。行きたいなあ。



そして、800年ころから1150年ころにかけてメキシコ中央高原の覇者となったトゥーラ。トルテカ族によるこの都市はチチェン・イツッアーに影響を与えたことで有名です。写真はケツァルコアトル神殿の戦士像。両手に武器を持ち、胸には蝶のような胸飾りを付けています。左下の写真では手前にチャック・モールが置かれています。チャック・モールが現れたのは、この時代です。

   




オアハカ室

オアハカはメキシコシティの南、ユカタン半島の西、太平洋に接した山がちな場所です。オルメカ文明が栄えたメキシコ湾岸にも近く、オルメカと同時期からサポテカ人による都市が築かれ始め、テオティワカンの隆盛とほぼ同時期にはモンテ・アルバンを中心に都市が栄えました。
モンテ・アルバンはテオティワカンとの交易で栄えたようですが、テオティワカン衰退後、人々は次第にモンテ・アルバンから周囲のミトラなどの都市に分かれていきます。しかし、スペイン来襲時まで独自の文明は続きました。日本での知名度はいま一つですが、メソアメリカで非常に息の長い文明であり、また今のところ最古の暦が見つかっている場所でもあります。

モンテ・アルバンは踊る人のレリーフで、ミトラは美しいモザイクで有名です。

左下はモンテ・アルバンの墳墓104号の復元、お墓なのに明るい雰囲気。
右下は墓所に置かれた人物像。
   



絵文書が特徴的。羽毛のあるヘビでしょうか。




左下 モンテ・アルバン出土の翡翠細工 コウモリの神の仮面
右下 ミシュテカ人の高い工芸技術を示す金製の黄金の胸飾り
   

サポテカ人の隣人として暮らしていたミシュテカ人は芸術家集団として古くから有名だったようです。
ミトラの美しいモザイクにはミシュテカ人が関わっているとの説も有力とか。

高原地帯のモンテ・アルバンやミトラは快適に観光できる遺跡です。




メキシコ湾岸室

メキシコ湾岸地帯はメソアメリカ文明の母体とも言われるオルメカ文明が栄えた場所です。オルメカ文明は紀元前1200年頃から紀元前400年頃に栄えた文明で、まず紀元前1200年頃にサン・ロレンソを中心に宗教的都市が栄え、紀元前900年頃に中心地がラ・ベンタに移りました。
巨大な人頭像やベビーフェイスとも呼ばれる不思議な表情の人物像、ジャガー信仰で有名です。

オルメカ文明についてはラ・ベンダ遺跡公園でまとめました。

左下 オルメカ特有の巨石人頭像
右下 力士像ともベロータの競技者像とも言われる人物像。力強さが伝わってくる逸品。
   


オルメカ文明が衰退した後も、メキシコ湾岸では独自の分化が栄えます。後300〜1200年に繁栄したエル・タヒンは、その代表でしょう。壁龕の神殿で知られるエル・タヒンでは球技が栄えていたことでも有名です。メキシコ湾岸の文化はワステカ文化として語られています。

ベラクルス州南部出土のトラロック像。
テオティワカンのトラロックが何とも言えない変化を遂げています。


こういった神を拝んでいたワステカ人・・・
よく分からない感が最高。

エル・タヒンは是非行きたい遺跡の一つです。




マヤ室

メキシコ南部・ユカタンからグアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバトルにかけて栄えたマヤ文明。
最盛期と言われる後250〜900年を古典期、その前後を先古典期(前1600?〜後250年)、後古典期(後900〜16世紀)と呼びますが、先古典期については近時遺跡の発掘で、どんどん遡っていて、メソアメリカの母文明と呼ばれたオルメカ文明との先後関係も論争となってきています。

メキシコ国内で世界遺産となっているマヤ遺跡だけでも、パレンケ、カラクムル、ウシュマル、チチェン・イツァーと4か所に及びます。

国立人類学博物館マヤ室の最高の見どころは何と言ってもパレンケのパカル王墓の復元展示でしょう。

他にもヤシュチラン出土の多くのリンテル・石碑は目に付きます。
レプリカですが、ボナンパクの壁画も見どころの一つといえるでしょうね。

パレンケのパカル王墓遺跡
ヤシュチラン
ボナンパクの壁画のオリジナル
カラクムル
ウシュマル
チチェン・イツァー
については独立してまとめました。

でも、それ以外にもマヤの優品はたくさんあります。

たとえば右の美しいレリーフ。
タバスコ州ホヌタ出土のレリーフです。

ホヌタと言われても、正直、どこ?といった感じ。全く一般には知られていない遺跡です。そのような遺跡から、このような優れたレリーフが出土しているというのがマヤの凄さではないでしょうか。

レリーフは「カカオの木に供え物を捧げる神官」と言われています。美しい浅彫り。神官の肩には聖鳥ケツァル。余りに美しいのでアップで撮ってみました。





マヤの人々の日常を切り取ったような粘土人形も素晴らしい。
左下 巨大な頭飾りをかぶり、宝飾品を身に着けた貴族。
右下 青いマントをまとい、大きなつば広帽子をかぶったマヤ貴族。
   


左下 マヤの人々。それぞれ表情が豊かです。
右下 「捕虜像」と呼ばれる人物像
   

右上の「捕虜像」と呼ばれる人物像は、ちょっと他の粘土人形とは違うものかもしれません。この人物像、異様に男性器が大きくありませんか。これは男根信仰と関係があるのかもしれません。ユカタン地方のマヤ遺跡では男根信仰がいたる所で見られます。


マヤは美しい神殿でも有名。
中央に火の神、左右に暦の象徴を両手で支える年老いた神。


やっぱり大好きなのはマヤ。




最後にメキシコ現代美術
国立人類学博物館入口のフィーノ・タマヨ作「昼と夜」



国立人類学博物館は2回行き、2回目は半日をかけましたが・・・
正直、時間が全然足りない。
駆け足で1階を見ただけ。紹介できてない部屋もあります。
でも、実は2階もあるんですよね・・・。

ともかく凄い博物館です。
展示品が凄いし、展示の工夫も凄い。
数日かけて見学したい・・・。



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参考文献

メキシコ国立人類学博物館 日本語版(ボネーキ出版社 メキシコ国立人類学博物館にて購入)
マヤ三千年の文明史 日本語版(ボネーキ出版社 メキシコ国立人類学博物館にて購入) 
古代メキシコ 日本語版(ボネーキ出版社 メキシコ国立人類学博物館にて購入)
古代マヤ王歴代誌(創元社 中村誠一監修)
図説古代マヤ文明(河出書房新社ふくろうの本 寺崎秀一郎著)
古代マヤ・アステカ不可思議大全(草思社 芝崎みゆき著)
マヤ・アステカ遺跡へっぴり紀行(草思社 芝崎みゆき著)
マヤ文明(岩波新書 青山和夫著)
マヤ文明(中公新書 石田英一郎著)
アステカ文明の謎(講談社現代新書 高山智博著)
古代アステカ王国(中公新書 増田義郎著)